とっておきの最上川 最上川河口編

東宮殿下御製 『山形県民の歌』 歌碑

  昭和天皇が東宮殿下(裕仁親王)の頃の大正14年(1925)10月4日、宮城県における陸軍特別大演習統監に先立って、酒田へ行啓されました。三浦実生山形県知事先導のもと、日和山公園展望台に到着され、最上川改修工事・酒田築港状況等をご覧になりました。この際の感慨を、翌昭和元年(1926)1月18日の宮中新年御歌会始め(勅題「河水清」)

 ”廣き野を ながれゆけ登も 最上川 
         うみにいるまで 濁らざ里希利”

 昭和3年(1928)10月、侍従長:入江為守の書になる御製歌碑が、最上川河口右岸の日和山公園に建立され、翌4年10月、「山形県民歌」に制定されました。
(文・写真 土岐田正勝氏)

酒田港との分離を目的に、「背割堤(せわりてい)」を築設

 最上川が現在のように安定した流路を保つまでには、ほぼ7年に一度割合で発生する大洪水・大氾濫との、壮絶な闘いがありました。庄内藩は、慶安3年(1650)・延宝2年(1674)・貞享2年(1685)の三次にわたって、最上川の新川造成に取り組んできました。しかし、最上川河口港として形成された酒田港には、最上川上流から吐き出される土砂堆積によって水深が浅くなり、大船の入港に支障をきたしました。
 このため最上川と酒田港を背割堤(堤防)によって分離する必要が生じ、現在のように堤防が築造されました。堤防の最前線(先端)には、酒田港への船舶出入港安全のために、高さ21m、光灯到達距離7.5マイル(14km)の赤灯台が築設されています。
なお、最上川河口の土砂堆積が現在も進行していることを、河口の背割堤上からも実見できます。
(文・写真 土岐田正勝氏)

日和山公園 河村瑞賢庫祉

 明暦3年(1657年)1月18日発生の江戸大火・振袖火事は、江戸市中を焼き尽くし、死者は十万人に達しました。幕府は、江戸復興の基礎となる東北地方からの城米(幕領米)輸送の迅速化を図るため、伊勢南島町(三重県)の河村瑞賢にこれを命じました。
 瑞賢は、江戸幕府に対して(1)最上川と日本海を活用して城米輸送の始発港を酒田とっすること、(2)城米は最上川を川船でくだし、酒田に貯蔵すること、(3)米貯蔵場建設費用を幕府が負担すること、などについて進言しました。
 寛文12年(1672)、瑞賢は火災によって類焼や洪水災害を避けることを第一眼目に、最上川河口右岸にある高台、すなわち現在の日和山公園広場に米置場を築設し、尾花沢、漆山、寒河江、柴橋、東根、大山などの城米7万俵あまりを貯蔵できるようにしました。
 最上川河口港の酒田港は、江戸後期「全国湊番付」に、東前頭2枚目にランクづけされています。また、日和山公園には、彫刻家・高橋剛 作の「河村瑞賢像」が建っています。
(文・写真 土岐田正勝氏)

最上川河口の山居島に由来する「山居倉庫」

  今から30数年前の昭和58年(1983)、NHK朝の連続ドラマ「おしん」(橋田壽賀子原作)の撮影が山居倉庫で行われ、一躍米倉庫も著名となりました。
 山居倉庫は、明治26年(1893)、最上川と新井田川(にいだがわ)に挟まれた中州、すなわち山居島に築設されたことに由来します。古絵図によると、山居島全体の広さは酒田市街地の約4分の1くらいと言えます。
 最上川河川敷は背割堤の築設により、田畑や住宅街を変貌させ、陸続きとなった山居島は、酒田米国取引所の米倉庫12棟が建設された。
 米倉庫は二重屋根やケヤキによる防熱、断熱材等による防湿・防虫対策が施され、全国一の良質米保管倉庫として注目を集めています。
 最近は景勝地としても名をとどろかせ、全国各地から視察や観光に訪れています。「庄内米歴史資料館」には、庄内米に関する資料や農具等が展示されており、大変貴重です。
(文・土岐田正勝氏)

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